夕立


 それは、あるクエストの帰りに出会った不思議な出来事。
 突然の夕立に見舞われたわたしたちは、雨宿りが出来る場所を求めて、雨の中を走っていた。
「足元に気をつけろよ!」
 切り立った崖にさしかかり、トラップが言う。わたしは思わず足が竦んでしまった。
「パステル、ほら掴まって」
 そんなわたしの様子に、クレイが優しく手を差し伸べてくれた。
「ありがとう……」
 わたしはその差し出された手を掴もうとした。
 体がグラリと揺れたのはその時だった。
「え……?」
 わたしは何が起きたか、一瞬、理解出来なかった。クレイの顔がどんどん遠ざかる。
 突然の雨に地盤が緩み、わたしの足元が崩れたのだ、と気付いたのは、完全に崖の下に身を投げ出されてからだった。



「ん……んん……」
 段々と意識が覚醒してゆくのを感じる。わたしはボンヤリとした意識を集中させ、何とか目を覚ます事が出来た。
「えぇっと……どうしたんだっけ……?」
 わたしは頭をフル回転させて、記憶を探る。
「確か、クエストの帰りに雨が降ってきて、雨宿り出来る場所を探してて……」
 そして、不意に記憶が繋がった。
「そうだ! わたしガケから落ちて……」
 その時になって、わたしはようやく周囲の異変に気付いた。
「何、これ……?」
 そこは異様な空間だった。空も、地面も、風景も何も無い。
 自分が立っているのか、浮いているのかも判らない。
 だが、ここを異様たらしめているのは、それだけでは無かった。
 わたしの周りに、無数のドアがあるのだ。
 そのドアも、立っているようにも浮いているようにも見える。
「何でドアばっかり?」
 わたしはグルリと周りを見渡した。そこら中、ドアだらけだった。
 ドアの周りに手を伸ばしたが、壁がある訳でもない。
 本当に、空間にドアだけが存在しているのだった。
「どうなってるんだろう……」
 わたしは近くのドアに手を伸ばし、ノブを掴んだ。
 そして、それを回そうとした時……。
「開けるのは、そのドアで良いのかい?」
 突然、誰かの声が聞こえた。
「だ、誰!?」
 わたしは声の主を見つけようと、視線を彷徨わせた。
 すると、いつからそこにいたのだろう。わたしのすぐ近くに、人が立っていた。

「驚かせて済まない。しかし、重要な事なのでね」
 その人はこちらに近付いてきた。わたしは、その妙ないでたちに目を奪われた。
 身体をすっぽりと包む襟付きの黒いマントに、鍔の無いシルクハットに似た、黒い帽子をかぶっているその姿は、
遠目には、大きな黒い筒に見えただろう。
 身長はわたしと同じくらい、唇に黒いルージュを引いた白い顔は、女の子のように見える。
「君がどうしてこんな所に来たのかは知らないが、選択は慎重にした方が良いな」
 その人は淡々と言う。声も女の子のようだが、しゃべり方は男の子のようでもある。
「……あなたは誰? それに、ここは……」
「ここは『世界の入り口』さ」
 彼(彼女?)は手を伸ばし、ほっそりとした指をドアに向けた。
「そして、この扉は『可能性』」
「可能性……?」
「そう。世界は絶えず分岐している。例えば、朝起きてベッドから降りる際、右足から降りるか、左足から降りるか、
それとも両足を揃えて降りるか? これだけでも世界は3通りに分岐する事になる。
 そして、その数々の扉は、『右足から降りた世界』『左足から降りた世界』『両足を揃えて降りた世界』
その他にも数え切れないほどの分岐した世界にそれぞれ通じている、というワケさ」
「えっと、つまり……人が行動を起こした数だけ、世界が分岐するって事?」
「少し違うが……概ねそんな所だ」
 彼は極めて無表情にそう言った。
「ねえ、ここから出る事は出来るの?」
「出来るさ。その扉を開けて、中に入れば良い。ただし……」
 彼は真剣な表情でわたしを見つめた。
「扉を開けるチャンスは一度だけだ。そして、君が帰るべき世界に繋がっている扉もこの中に一つしかない」
 彼の言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかったと思う。
 それは、あまりにも絶望的な言葉だったから。
「チャンスは一度って……。しかも、わたしが帰るべき世界に繋がった扉は、この中の一つだなんて……。そんなの、判りっこないじゃない!?」
 わたしは今にも泣き出しそうになるのを懸命に堪えた。それでも、足がガクガクと震えているのを感じる。
「もし……間違ったら、どうなるの?」
「その時は、君を殺さなければならない」
 彼は何の躊躇もなく、そう答えた。
「君が間違った世界に入ってしまったら、君の存在はその世界を崩壊に導く物となる。
つまり、『世界の敵』となってしまう訳だ。『世界の敵』を倒す事、それがぼくの義務なんだ」
 彼は真剣な顔で、わたしを見つめた。
「ここには『時間』という概念は無い。ゆっくり選択すると良い。願わくば、君が元の世界に戻れればと思っている」
 彼のその言葉が剣のようにわたしの心に突き刺さった。
 そして、わたしはガックリとその場にへたり込んだ。

 どれぐらい呆然としていたのだろう。わたしは考える事も忘れて、ただ虚空を見つめていた。
 ふと視線を上げると、彼は変わらずそこに立っていた。無表情にこちらを見つめている。
「ねぇ……聞いても良い?」
「ぼくに答えられる事ならね」
「あなたって……男の子なの? それとも、女の子?」
 なぜ、そんな質問をしたのか判らない。ただ、漠然と気になったのだ。
「……君にはぼくがどう見えているんだい?」
「しゃべり方は男っぽいけど、顔や声は女の子みたい」
「ぼくはどんな格好をしている?」
「黒い帽子に黒いマント。少し離れてみたら、筒が立ってるみたい」
 そう答えると、彼は少し考え込むような素振りを見せた。
「ふむ。君はどうやら、ぼくが『宮下藤花』の中に浮かび上がった時の姿で認識しているようだね。
ここでは誰の身体も借りてないというのに……。興味深いね」
「ミヤシタトーカ……?」
「ああ、君の世界風に言えば『トウカ・ミヤシタ』になる。『世界の敵』が現われた時、ぼくは彼女から浮かび上がってくるんだ。ある世界では、ね」
 彼は相変わらず表情を変えずに言う。正直、わたしには、彼の言っている事がよく判らなかった。
「今の所、君の世界には行った事は無いはずだが、もしもそこに敵が現われたら、ぼくは誰かの中から浮かび上がってくるだろう」
「その……誰かの中から浮かび上がるって、自分で決められないの?」
「ぼくは自動的なんでね。周囲に異変を察知したら浮かび上がってくるんだ。今、君の前にいるのも、君がここに迷い込んできたからだ。
しかし、今回は宮下藤花の中から浮かび上がった訳でも無いのに、君は彼女の姿でぼくを認識している。なかなか不思議な現象だ」
 そう言って、彼は左眼を細めて、口元の右側を吊り上げた。
 怒っているような、笑っているような、左右非対称の顔だった。
 わたしは不意に肩の力が抜けたような気がして、すっくと立ち上がった。
「どの扉にするか、決まったのかい?」
「うぅん。まだ決めてない。でも、いつまでも座り込んでいた所で何も解決しないもの」
 わたしは努めて明るくそう言った。
「……本来、世界には自分の身に危険が迫らないようにする、自浄作用のような物がある。
ぼくもおそらく、その一環なのだろう。確かな事は言えないが、君が元の世界に戻る為のヒントがあるかもしれない」
「ホント!?」
「さあ、判らない。そんな気がするだけさ」
 いささか頼りない言葉だが、わたしは何だか救われたような気がした。
 と、その時。
「ねえ、何か聞こえなかった?」
 わたしは耳を澄ませた。確かにどこからか音がする。
「これは……誰かの声だね」
 彼は辺りを見回し、声の方向を見つけたのか、すたすたと歩き始めた。
 わたしもその後に続く。
 やがて、彼は一枚の扉の前で足を止めた。
「ここから声が聞こえる。もしかしたら、君の知り合いの声かもしれない」
 彼は横に移動し、扉の前を開けてくれた。
 わたしは扉に顔を寄せ、懸命に耳を澄ませた。
 確かに、扉の向こうから声が聞こえてきた。温かく、優しい男の人の声。
「この声……クレイ!?」
 そう、それは間違い無くクレイの声だった。そして、その声はわたしの名前を呼んでいた。
「クレイが……呼んでる。これが……わたしの帰る世界の扉……」
 わたしは扉のノブに手を伸ばした。
「おそらく間違いは無いと思うが……。その扉で良いんだね?」
 彼がそう問い掛ける。
「クレイが呼んでるんだもん。間違い無いよ」
 わたしは満面の笑みを浮べた。
「その、クレイという人は、君にとって大切な人のようだね」
「うん。世界で一番……大切な人……」
 わたしはノブを回し、その扉を開いた。中から、まばゆいばかりの光が溢れてきた。
「うわ、眩しい……」
 とてもじゃないけど、目を開けていられなかった。
「次に目を覚ませば、君はとりあえず、どこかの世界に出る。その時、ぼくがいなければ、君は無事に戻れた事になる。
出来れば、これっきりになる事を祈っているよ」
 彼の声が響く。私は首だけ振り向いて、あまりの眩しさに閉じる瞼を無理やり開き、彼を見つめた。
「そういえば、名前聞いてなかったよね? わたしはパステル。パステル・G・キングよ」
「ぼくは……『ブギーポップ』……」

 光が一際大きくなり、わたしはそれに飲み込まれた。

「……ステル、パステル! しっかりしろ!!」
 わたしを呼ぶ声が聞こえる。心地良い暖かな声。でも、ひどく心配しているような響き。
「ん……クレイ……?」
 わたしはゆっくり目を開いた。すると、心配そうに覗き込んでいるクレイの顔があった。
「パステル! 気がついたか!!」
「クレイ……わたし、どうなって……」
 わたしが最後まで言葉を発する前に、クレイはわたしを抱き締めた。
「く、クレイ……!?」
「良かった……。無事で……」
「…………うん。ごめんね、心配かけちゃって」
 わたしはクレイの胸に顔を埋め、一息ついてから顔を上げた。
 ゆっくりと彼の顔が近付いてくる。
 わたしは目を閉じて、唇が触れ合う瞬間を待った。
「おいおい。そういう事は、2人きりの時にしてくれよな」
 突然のトラップの声に、わたしはハッと目を開いた。
 すると、クレイのすぐ後ろにトラップが立っているではないか。
「ったくよぉ。クレイも心配だったのは判るけど、ちっとは落ち着けっての」
 呆れたようにトラップが言う。
「まったくですね。アナタたち、好き合っているのは判りますが、もう少し人目をはばかってもらえませんかねぇ?」
 トラップだけではない。キットンもそこにいた。
「ぱーるぅ、よかったおぅ」
 半ベソをかいたルーミィがやって来る。
「パステルおねーしゃん、ルーミィしゃん、ずっと心配して泣いてたデシ」
 ルーミィの横にはシロちゃんもいる。
「パステル、なかなか目を覚まさないから、みんな心配した。でも、ケガもしてないみたいで良かった」
 ノルが優しい目で言う。
「わたし……戻って来れたんだ……」
 パーティのみんなに囲まれて、わたしはボンヤリと呟いた。
「戻って来れた? どういう意味だ?」
 クレイが不思議そうに尋ねる。
「あ、うぅん。何でもないよ」
 わたしは何故か、あの不思議な体験を話す気になれなかった。
 きっと信じてもらえないだろうし、あれは夢だったのかもしれないから……。
「あ、雨止んでるね」
 わたしは空を見上げた。どんよりとした雲の隙間から、陽の光が漏れていた。
「ああ。でも、みんなビショ濡れだ。早く帰らないと風邪ひいちまう」
 クレイは立ち上がり、わたしに手を差し伸べた。
 わたしはその手を掴み、ゆっくりと立ち上がった。
 その時、クレイがわたしに顔を近づけた。
「え、な、何……?」
「無事に戻れて良かった。ぼくも義務を果たさなくてホッとしている。これで本当にお別れだ」
 クレイはわたしにだけ聞こえるように小さな声で言うと、真面目なような、ふざけているような、
あの何とも形容しがたい左右非対称の顔をした。
「え……?」
「ん……どうした?」
 その変化はほんの一瞬の事だった。
「あ……な、何でもないよ。早く帰ろう」
 わたしはクレイに手を引かれたまま、歩きだした。

   それは夕立が見せた幻想だったのか。
 わたしがその答えを知る事はきっと無いのだろうと、  そして、それで良いのだろうと、そんな風に考えながら、帰路に着いた。


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